「悟り」と「退屈」というキーワードで検索される方もいらっしゃるようですが、なんで「悟り」が「退屈」なのよ?と思ってしまいました。
そこで、仏教的な退屈と、管理人の考える「悟り」と「退屈」について紹介していきたいと思います。
仏教的な退屈
正直な話、「悟り」と「退屈」ということについて調べてみなかったら退屈という本当に意味を知らずにいるところでした。
そこで、簡単に仏教的な退屈について紹介していきます。
①仏様の悟りの世界が大きすぎて屈する退屈
②修行の世界に終わりが無い事から起こる退屈
③修行の成果が悟りに繋がるのか理解できない退屈
以上のような意味があるようです。
私も「退屈」について調べなかったら知らない事でした。
確かに私の場合②の退屈は理解できるような気がします・・・。
退屈は理解できる
確かに、悟りを開いて気付いたことは、輪廻転生が続いていく途方もなさにガックリ来ました。
産まれてから40年ちょっとですが、このような人生を途方もないほど重ねるんだと気づいてしまうと、正直マジかーといった気分になります。(退屈)
とはいえ、この世を生き抜くことが修行ですから、生き抜いた時に少しづつ成果につながることは理解できているので、気張らずに人生を楽しんでいこうと考えています。
人間は死んだときに自分の人生にどのような意味合いがあったのか?理解でき、成長するので今起きている出来事は難しく考えずに、消化していきたいですよね。
退屈にならないために
私が退屈にならないために考えた思考の切り替え法について紹介します。
私の場合②の修行に終わりがない事から起こる退屈は何となくわかる気がします。
終わりが無いというのは輪廻転生をしていくことで得られる経験、修行が永遠に続くことだと思います。
輪廻転生を繰り返していくことを理解していると、ああ・・・これはいろいろな事に100%で挑んでいたらキリがないな・・・と考え、自分のしたい事、やりたい事に思考を切り替えました。
例えば、仕事中心に生きるとしても、また来世で仕事に打ち込むというのは、私的に本当に楽しいことなのか?という感じでしたので、私は自分の楽しい事、やりたいことに打ち込むことを重視して生きています。
正直な話、また来世で修業を積むのか・・・と考えるとキリがありませんので、無駄な事は考えず、今を楽しむ、今を注目して生きるようにしています。
ですので、皆さんも自分のやりたい事に注目して退屈しないように生きていきましょう!